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大阪地方裁判所 昭和63年(ワ)5388号 判決

原告

村中優夫

ほか二名

被告

石亀政一

主文

一  被告は、原告村中優夫に対し、金四八八七万四二六八円及び内金四六三九万七八四八円に対する昭和六一年五月一〇日から、内金二四七万六四二〇円に対する平成三年九月三日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告村中優夫のその余の請求、原告村中新治及び同村中初子の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

四  その判決の第一項は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  被告は、原告村中優夫に対し、金八〇六七万五八六五円及び内金七八〇二万四五七五円に対する昭和六一年五月一〇日から、内金二六五万一二九〇円に対する平成三年九月三日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告村中新治及び同村中初子に対し、それぞれ金一〇〇万円及びこれに対する昭和六一年五月一〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  争いのない事実

1  事故の発生

次のとおりの交通事故(以下「本件事故」という。)が発生した。

(一) 日時 昭和六一年五月一〇日午後一〇時五〇分ころ

(二) 場所 大阪府堺市築港新町二―二先道路(以下「本件道路」という。)上。

(三) 加害車 被告運転の普通乗用自動車(泉五六ら七八一三号)

(四) 被害車 原告村中優夫(以下「原告優夫」という。)運転の自動二輪車(一大阪く二二八七号)

(五) 事故態様 被害車が交差点で信号待ちのため停車していたところ、加害車が追突した。

2  責任原因

本件事故は被告の前方確認義務違反に基づくものであり、また、被告が加害車を事故のため運行の用に供していたから、被告は、民法七〇九条及び自賠法三条により、原告らの損害を賠償する責任がある。

3  原告優夫の治療経過

(一) 負傷

原告優夫は、本件事故により、頭部外傷(前頭骨骨折、髄液耳漏及び鼻漏、脳挫傷、外傷性脳内出血、硬膜下血腫)、右視神経損傷、左脛骨骨折、左踵骨骨折、顔面多発性骨折の傷害を負つた。

(二) 治療経過

(1) 昭和六一年五月一〇日から同年一一月二一日まで馬場記念病院入院(入院日数一九六日)

(2) 同月二二日から昭和六二年九月二日まで同病院通院(実通院日数二二日)

(3) 昭和六二年一月一五日日本橋病院通院

(4) 昭和六三年三月一〇日日本橋病院通院

(なお、右の他にも、原告らは後記の通院を主張し争つている。)

4  原告優夫は、右眼失明(自賠法施行令二条別表後遺障害別等級表(以下「後遺障害別等級表」という。)の第八級第一号に該当する。)及び頭部の脱毛痕(同表の第一二級第一三号に該当する。)の後遺障害を残して、昭和六二年九月二日、症状固定した(さらに、原告らは、後記の後遺障害を主張して争つている。)。

5  原告優夫は、本件事故による損害の填補として休業損害の内払金三〇〇万〇六五八円及び雑費一〇万円を受領した。

二  争点

1  後遺障害の内容及び程度

原告らは、右の後遺障害の他、脳挫傷によるケイレン発作、左眼の視力減退、嗅覚の中等度減退、斜視の後遺障害が残り、以上は後遺障害別等級表の第五級程度であると主張する。これに対し、被告は、原告優夫には四肢の麻痺、知覚低下、精神症状等の臨床症状や他覚的所見が認められず、また、八歳ころからケイレン発作の既往症があることなどから、本件事故によつてケイレン発作が生じたとは認められず、仮に本件事故によるものであるとしても、ケイレン発作は投薬によつて抑えられているので、原告ら主張のような重度の精神神経障害は認められないとして争つている。この点が、本件の一番の争点である。

2  相当な治療及び相当休業期間

原告らは、右の他に本件事故と因果関係のある通院として、玉田病院及び大阪市立大学医学部附属病院への通院があり、さらに症状固定後も馬場記念病院に一か月に一回程度の通院が必要であつたと主張している。

これに対し、被告は、本件事故と症状固定以後の通院との因果関係を否定し、症状固定前の通院期間についても、経過観察あるいは投薬のための通院であり、また、その期間に原告優夫は働いていたから、全期間を休業期間とすることは相当でないとして争つている。

3  損害額

主な争点は、後遺障害による逸失利益である。

第三争点に対する判断

一  後遺障害の内容及び程度(争点Ⅰ)並びに相当な治療及び相当休業期間(争点2)

1  事故の態様並びに症状及び治療の経過

前記第二の一の争いのない事実に、証拠(甲一、七ないし一三、一六の一ないし七、一七、一八の一、二、一九の一、二、二〇の一ないし一二、二二の一ないし一六、二三、二四の一ないし四、三二の一ないし三、乙五ないし一一、原告優夫本人、原告村中新治本人)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(一) 事故の態様

(1) 被告は、本件事故直前、普通乗用自動車である加害車を運転して一人で通勤先から帰る途中であり、片側三車線の東西に伸びるアスフアルト舗装のなされた本件道路の東行き第二車線を本件事故現場の交差点(以下「本件交差点」という。)方向に向かつて、時速五〇キロメートル程度で東進していた。被告は、交通量が少ないこともあり、ぼんやりしたまま走行して、前方を注視せず、本件交差点の手前の停止線まで四六メートル程度の地点では、対向車線を走行する車両に目をやりわき見をして運転していたため、加害車の前方、第二車線の同停止線の手前で信号待ちのため停止していた被害車に気付かず、何ら制動操作をすることもなかつたため、加害車は、同じ速度を維持したまま、被害車の後部に衝突した(甲一63、88ないし、90頁)。

なお、本件事故から二時間程経つた昭和六一年五月一一日午前一時五分ころに、被告から呼気一リツトル中〇・二ミリグラム程度のアルコール分が検出されている。

(2) 原告優夫(昭和三七年九月八日生)は、友人の巽小百合を後部座席に乗せ、自動二輪車である被害車を運転して海を見に来て帰る途中であり、本件道路東行き第二車線の本件交差点の手前の停止線付近で対面信号が赤色を表示していたため、普通にブレーキを踏んで停止していたところ、後方より走行してきた加害車に追突された。原告優夫は当時、ヘルメツトを被つていた。

(3) 本件事故当時、本件道路の制限速度は時速六〇キロメートルに規制され、路面は乾燥していた。本件事故の結果、加害車は、衝突地点から斜め右前方約三三・八メートルの中央分離帯の植え込みに乗り上げて停止し、右前バンパー、グリル、ボンネツト凹損、右前照灯破損、ボンネツト右側部分浮き上がりなどの損傷を受けた。

また、被害車は、衝突地点から斜め右前方約二二・五メートルの地点に横転した形で停止し、テールランプ破損脱落、荷台支柱曲損などの損傷を受けた。原告優夫は、ヘルメツトを飛ばされ、やはり衝突地点から斜め右前方約一六・五メートルの地点に投げ出された。

(二) 症状及び治療の経過

(1) 原告優夫は、前記第二の一3(一)記載の傷害を受け、本件事故当日の昭和六一年五月一〇日、救急車で馬場記念病院に昏睡状態で運ばれ、入院し、同月一九日まで集中治療室において治療を受けた。原告優夫の初診時の所見は、右瞳孔が散大し、CTスキヤン上、両前頭部に硬膜下血腫が形成されるなど脳挫傷による所見があつたが、これによる圧迫所見は著明なものがなく、明らかな運動麻痺もなかつた。同病院では、同月二二日、原告優夫に対し、左脛骨内顆骨折の観血的整復術を施行し、原告優夫は、同月二九日には、脳外科的にはベツト上座位可、整形外科的には荷重歩行以外可能の状態であつた(乙七2ないし10丁)。

同年六月二日の頭部MRI検査では、右前頭葉底に空気集積像、左前頭に血腫、左右前頭に小さな挫傷などの所見があり、同月三日、大腿筋膜切除、両側前頭開頭術を行い、右前頭部硬膜欠損部の筋膜による修復及び前頭洞の筋肉片と骨片骨膜による修復をする髄液鼻漏根治術を施行し、同手術後、髄液漏はなくなつた。なお、同手術前チエツクでは、神経学的所見として、左右の嗅覚脱失プラス、右の光覚弁マイナス、対光反射直接は左プラス右マイナス、対光反射間接は左マイナス右プラスとされていた(乙七11丁)。

同月一〇日から、抗ケイレン剤であるルミナールの定期処方が行われるようになつている(乙七93丁)。そして、同月末には、脳外科的には全面的リハビリテーシヨン可能、整形外科的にも、松葉杖を二本用いた二分の一部分荷重まで可能な状態になつた(乙七20丁)。

しかし、同年七月九日には、肝機能を示すGOT、GPTの数値が上昇していることが認められ、同月一四日には、今後ケイレン発作の出現する可能性があると診断されている(甲一32頁)。また、担当医師は、同月一七日に原告優夫の兄に対して、鼻漏のほか、外傷性てんかんや肝機能障害が問題であるとの説明を行つた(乙七21丁)。同月二八日には、肝機能障害のため歩行できないと診断されている。

同年八月一二日の頭部MRI検査では、右前頭葉の先端と下部に陳旧性脳損傷が認められ、右被殻の前下方にも、脳損傷による陳旧性血腫が認められた(乙七91丁)。同月一三日には、前記の嗅神経及び視神経の障害はたぶん不可逆的であろうという診断がなされ、また、肝機能については経過観察をするという診療方針であつた。そして、同月一八日には、左脛骨骨折抜釘術が施行され、五月二二日の手術で埋め込まれたA―O果部スクリユーの抜釘が行われた。また、同月二一日には、タバコによる検査で、右嗅覚脱失、左嗅覚低下の診断がなされている。

原告優夫は、同年九月二八日には外出をし、さらに、同年一〇月八日には退院について家族と相談するための外出がなされ、同月一四日には退院可能の診断がなされたが、同月二四日には肝機能が悪化し、退院時期が再検討された。その後、肝機能検査の結果が変化なけれは退院して通院させるという診断がなされ、同年一一月二一日軽快退院し、翌日から通院加療に変わつた。なお、原告優夫には、退院時においても、ルミナールの処方がなされている。

(2) 退院後、馬場記念病院への初めての通院は、同月二八日に行われ、その時には、タバコのにおいが判るようであつた。その後、同年一二月一〇日の通院時には、肝機能の数値も正常となり、同月一二日には嗅神経が左のみ少し回復した旨診断されている。

(3) 原告優夫は、昭和六二年一月一五日未明に自宅で就寝中、全身間代性ケイレンを起こし、救急車で日本橋病院に運ばれ、診察を受けた。同病院で診察を受けた時には意識清明となつていたが、両顎関節脱臼が認められた。CT検査では右前頭葉底から内側に低吸収域及び右前角(側脳室)の拡大があり、陳旧性外傷性病変が認められ、ケイレン発作(頭部外傷後てんかんの疑)との診断がなされた(乙一〇)。同病院では、同月一六日にも診察が行われた。同日には、馬場記念病院にも通院して、ルミナールの処方がそれまでの〇・〇六グラムから〇・一グラムへと増量された。同月二八日に同病院でEEG(脳波)検査が行われ、同月三〇日には、脳波はほぼ正常と認められた(乙七123丁)。

(4) その後、原告優夫は、昭和六二年二月二四日に、馬場記念病院の医師の紹介で、大阪市立大学附属病院眼科の診察を受け、右眼底の乳頭部蒼白が認められ、右眼外傷性視神経萎縮の傷病名で、右眼対光反射消失と診断された(甲八、乙九)。左眼の視力は〇・七であつた。同科では、診断のみで治療はなされていない。

また、原告優夫は、同年三月一一日に、馬場記念病院の医師の紹介で、大阪市立大学附属病院耳鼻咽喉科の診察を受け、同年四月九日に嗅覚検査を受けて、静脈試験にて、嗅覚減退症として中等度の嗅覚低下を認め、予後の判定に約二か月を要すると診断された(甲一一)。嗅覚は、かなり残存しており(乙八5丁)、点鼻法で経過観察するようにという所見であつた。同月一六日の診察でも、嗅覚脱失は不変であつた。なお、同科では、通常生活を行う上では支障はないが、原告優夫の職業が調理師だからということで、中等度の嗅覚減退と診断したものであつた(原告優夫17丁)。

(5) 馬場記念病院への通院は、その後も、同年二月二〇日、二五日、三月一三日、四月三日、八日、二四日、五月二五日、二七日、六月二四日、七月二二日、八月二一日と行われた。その内容は、経過観察(特に肝臓について)及び投薬のためのものであり、四月八日の診察では、肝機能に関するトランスアミラーゼがやや上昇していることが窺えるが、五月二五日以降、肝疾患については全般的に良好に推移している。しかし、八月二一日には、同病院の安井医師により、外傷後のケイレン発作を認め、抗ケイレン剤の投与は生涯にわたり必要との診断を受けている。なお、原告優夫は、同年六月三〇日から、そば屋でアルバイトを始めた(その旨は、右八月二一日の診療録にも現れている)。

(6) そして、原告優夫は、同年九月二日に、馬場記念病院の安井医師により、右視力障害(視力〇)、嗅覚障害及びケイレンの後遺障害のほか、頭部に五ミリメートル×三〇〇ミリメートルの醜状痕を残して症状が固定し、右症状の増悪緩解は見られないと考えるものと診断された(甲一三)。

(7) その後、同月一六日に通院して、血液検査を受けている。そして、同年一〇月一四日、一一月一一日、一二月九日、昭和六三年一月八日、二月五日、三月四日と馬場記念病院に通院しているが、その間、一二月の通院時に血液検査を受け、その他の通院では通常の経過観察と投薬がなされた。

(8) 昭和六三年三月八日に、原告優夫は再度、全身ケイレン発作を起こし(甲一七)、翌々日の一〇日に、日本橋病院で受診し、CT検査を受け(その結果については明らかではないが、甲一九の二において、原告代理人からの照会に対し、日本橋病院の医師が、CT検査の時期について無限定のまま右前頭部に低吸収域を認める旨回答している点からして、昭和六二年一月一五日の日本橋病院でのCT検査と同様の所見があつたものと推認される。)、「epi」との診断を受けた(なお、乙一〇の訳文においては、同診断名を「けいれん」としている。)。

(9) その後、同年四月一日に馬場記念病院に通院し、それまでのルミナールに加え、やはり抗ケイレン剤のバレリンの処方を受けるようになつた。同月六日には、同病院で血液検査を受けたが、肝疾患に関しては一年以上正常化しており、特に問題なく治癒したものと診断された。さらに、同病院に同月二二日、五月一三日、六月一〇日、七月六日、八月三日に通院し、ルミナール及びバレリンの処方を受け続け、その後ケイレン発作はないものの、六月一〇日には記憶力低下プラスとされ、七月六日には傾眠の症状が認められている。

そして、その後、さらにその後現在までに、馬場記念病院に三八回の通院加療を受ている(甲一六の一ないし七、二〇の一ないし一二、二二の一ないし一六、二四の一ないし三、三二の一ないし三、原告新治本人)。

(三) 既往症及び事故前の状況

原告優夫は、八歳のころケイレン発作を起こし、その後ケイレン発作が時々起こつて、上二病院で中学二年くらいまで内服治療を受けていた。中学校卒業以後は、その薬の服用は止めており、それ以後ケイレン発作は起こらなかつた(原告優夫本人26丁、原告新治本人3丁)。

原告優夫は、中学校を昭和五三年三月卒業し、同年四月ころから更科というそば屋に勤めつつ調理師学校に行つていた。その後、昭和五五年三月から、有限会社兼六というそば屋に勤め、その後勤め続けて、事故当時も勤めていた。また、昭和六〇年四月に国家試験の調理師の資格を取つた。将来は、自分で飲食店の経営をしたいという希望を持つていた。

(四) 自賠責の事前認定

自動車保険料率算定会は、昭和六二年一二月七日、右眼失明及び頭部の脱毛痕を本件交通事故に基づく原告優夫の後遺障害と認め、前者を別表後遺障害別等級表の第八級第一号に、後者を同表の第一二級第一三号にそれぞれ該当するものとして、その後遺障害の程度を、同施行令二条に基づく併合第七級と認定した。その後、再認定がなされ、平成三年二月一九日、ケイレン発作の点について本件事故の後遺障害として同表の第九級第一〇号に該当するものと認定した(乙一一及び弁論の全趣旨)。

(五) 現状

(1) 現在の原告優夫の症状は、馬場記念病院の安井医師の診断では、抗ケイレン剤として、ルミナール、バルプロン酸を投与しており、これを減らすとケイレンが生じるようであり、脳挫傷と抗ケイレン剤服用のため、脳機能の低下(物忘れ、傾眠など)があり、現在就労は実質上不可能となつているが、しかし、努力によつては、軽易な労務であれば服することは可能な状態である(甲二三)。

(2) そして、前記のとおり、原告優夫は、昭和六二年六月三〇日から、そば屋で一日四時間程度、出前をして働くことを始めたが、いくつか店を変わつて、六三年五月三一日まで働いて辞めた。その後は、働く意欲が涌いてこず、疲れを感じるので、働きに行かず、自宅で、毎日テレビを六時間から七時間見たり、本を休憩しながら一時間くらい読んだり、眠くなつたら寝たりという生活を送つており、ほかに何もしていないから、テレビをこの程度見ても疲れないと言う。なお、原告優夫は、毎日、家に居るわけではなく、たまに、服や靴を買いに行くことや、映画を見に行つたりすることもあり、自転車のほか、原付にも何度か乗つたことがある。

また、本件事故後、二回のケイレン発作以来、発作は起きていないが、右眼失明のため、視野が狭くなり遠近感が悪く、危険を見つけるのに遅れたりするいう不自由があり、嗅覚は、特に体調が悪いときに効きが悪く、右が特に悪くて、物の焼けるにおいとか焦げるにおい、香水のにおい、花の香りなどが判らないことがあるが、においを感じる時もあるという状態である(原告優夫本人33丁)。また、開頭手術の結果できた脱毛痕は、髪で外見上見えない。さらに、記憶力の低下として、ご飯を食べているのにまだ食べていない様な気がするなど、些細なことを忘れることがある状態である。

2  後遺障害の内容及び程度

(一)(1) 以上の受傷内容、治療及び症状の経過、現在の状況そのほかの諸事実によれば、原告優夫は、本件事故により、右眼失明、頭部の脱毛痕のほか、脳挫傷による外傷後ケイレン発作及び嗅覚の減退の後遺障害を被つたものと考えられる。

(2) このうち、ケイレン発作の点について、被告は、後遺障害診断書(甲一三)に他覚的所見の記載がなく、ケイレン発作の後の脳波検査は正常所見であり、また、原告優夫にケイレン発作の既往症があるとして、後遺障害と認めることに疑問を挟んでいる。

しかし、原告優夫の既往症については、八年以上も前に治療は終わり、その後症状が現れていなかつたことからして、既に治癒していたものと推認でき、さらに、日本橋病院におけるCT検査の他、馬場記念病院における頭部MRI検査においても、脳損傷による陳旧性血腫が認められており、さらに抗ケイレン剤であるルミナールが本件事故の一か月後の昭和六一年六月一〇日以降定期的に処方されており、外傷性てんかんか否かについては明らかではないが、外傷性のケイレンについて、既に同年七月中旬に医師から問題とされ、その後、実際に発症したという経緯があることからして、本件事故による脳挫傷に基づく後遺障害であると推認される。

ただし、抗ケイレン剤を服用していてもケイレンの起こる可能性はあるとしても(甲一八の二)、実際のケイレン発作は、昭和六二年一月一五日と昭和六三年三月八日に起こつた二回だけであり、二回目の発作の後に抗ケイレン剤のバレリン(バリプロン酸)を加えて投与されるようになり、その後、現在まで三年半程度の間には右発作は起こつていないことからして、抗ケイレン剤の投与で、将来もケイレン発作は十分に抑制される蓋然性が高いものと考えるべきである。

(3) また、嗅覚の減退の程度については、大阪市立大学附属病院耳鼻咽喉科の診断では中等度であるが、右診断は、原告優夫が調理師であることを前提にして、普通生活にはあまり支障のない程度をあえて中等度と判断したものと考えられ、また、右診断の当時はまだ治療の途中であり、原告優夫の現状としては、体調によつて花のにおいなどが判るときもあるというのであるから、その減退の程度は軽度である考えられる。

(4) なお、原告優夫が主張する左眼の視力減退については、事故前の同人の視力がどの程度あつたかを認めるに足りる証拠がなく、同じく斜視の点については、客観的証拠に乏しいのでいずれも認められない。

(二) 以上のとおり、原告優夫には、右眼の失明により視野が狭くなるなどの支障が生じており、また、脳挫傷によるケイレン発作の起きる可能性が生涯付きまとうものといえること、また、一生服用しなくてはならない抗ケイレン剤の副作用により、物忘れや傾眠などの脳機能の低下の症状が発現していること、中学校卒業以来、調理師学校に通い、そば屋に勤め、また、調理師資格を取つて、飲食業経営を目指していた原告優夫にとつて、軽度とはいえ嗅覚の減退は実際上の障害になつていると考えられること、しかし、原告優夫は、症状固定当時二五歳と若く、まだ職業選択の余地は比較的広いと考えられること、現在のところ、抗ケイレン剤によつてケイレン発作は抑制されているものと認められることなど前記認定の諸事情を総合すると、本件事故の後遺障害による原告優夫の労働能力喪失率については、二五歳からその就労可能な六七歳までを平均して、五〇パーセント程度と認めるのが相当である。(なお、顔面の醜状痕は、その程度、部位からみて、原告優夫の労働能力に影響を及ぼすとは認め難い。)。

3  相当な治療及び相当休業期間

(一) 以上の事実によれば、原告優夫は、本件事故の後遺障害が存した眼及び嗅覚の状態についての診断を受けるために大阪市立大学医学部附属病院眼科及び耳鼻咽喉科に通院したものであり、右通院は本件事故と相当因果関係に立つものと認められる。

(二) また、症状固定後も、馬場記念病院に一か月に一回程度、昭和六三年八月までに一三回の通院をしており、さらにその後、現在までに三八回の通院加療を受けているが、これらについても、以上から、抗ケイレン剤の処方などに必要なもので、これによつてケイレン発作の発現が抑制され、障害の程度も抑えられているものと推認されるから、本件事故と相当因果関係に立つ通院であると考えられる。また、昭和六三年三月一〇日の日本橋病院への通院も、以上の事実により、ケイレン発作の受診のためであることは明らかであり、本件事故と相当因果関係に立つ通院である。

(三) しかし、原告らの主張する玉田病院への通院は、甲五よりその事実は認められるものの、本件事故との因果関係については、原告新治の推測的な供述(11丁)のみで客観的な証拠がないので認められない。

(四) また、相当休業期間に関して、争いのない症状固定診断日である昭和六二年九月二日以前においても、同年四月までには眼科、耳鼻咽喉科などの必要な診断も終了し、馬場記念病院での診療内容も、経過観察と投薬が主なものとなつており、同年五月二五日の通院以後は肝臓の状態も良好で推移し、翌昭和六三年四月一日の通院では、一年以上も肝疾患は正常化していると判断されていること、また、昭和六二年六月三〇日からは、原告優夫は、そば屋での一日四時間程度のアルバイトを始めたことからして、遅くとも同年七月一日から就労可能であつたものと考えられ、以上記載の諸事実に照らして、同日から症状固定日までの原告優夫の労働能力は、本件事故前の五〇パーセント程度であつたものと考えるのが相当である。

二  原告優夫の損害額(争点3)

1  治療関係費(主張額一九万三八五〇円) 一八万〇八〇〇円

証拠(甲二の六ないし二二、三、四、一六の一ないし七、二〇の一ないし一二、二二の一ないし一六、二四の一ないし三、三二の一ないし三)によれば、原告優夫は、以上記載の本件事故に基づく入通院のために必要とされた治療関係費として、馬場記念病院に一五万七四六〇円(甲二の一ないし五によると、さらに一万二一〇〇円の支払が認められるが、右は氷のうなどの入院雑費で支弁されるべき費用についての出費であるから、治療費としては損害と認められない。)、大阪市立大学附属病院に一万三七九〇円、日本橋病院に九五五〇円の合計一八万〇八〇〇円を支払つた。

2  入院雑費(主張額二三万五二〇〇円) 二三万五二〇〇円

原告優夫が本件事故による治療のために馬場記念病院に一九六日間入院したことは、当事者間に争いがないところ、一日あたりの入院雑費は一二〇〇円とするのが相当であるから、本件事故と相当因果関係のある入院雑費は、次のとおり二三万五二〇〇円となる。

(算式) 1200×196=235,200

3  通院交通費(主張額八万六二七〇円) 五万五四二〇円

甲六の二によると、原告優夫が昭和六二年一月一五日に、日本橋病院に救急車で運ばれた際の費用は、五七八〇円と認められる。また、原告優夫が、症状固定日までに二二日間馬場記念病院に通院したことは、当事者間に争いがなく、さらに、前記のとおり、その後、同病院に五一日間通院したことが認められ、甲六の二によれば、原告優夫の自宅から馬場記念病院まで電車等の乗継ぎで片道三四〇円程度の交通費が必要であつたものと認められるところ、特に退院後の通院のためタクシーを使わざるを得なかつた事情も認められないから、馬場記念病院への通院のための交通費で本件事故と相当因果関係の認められるものは、次の算式のとおり、四万九六四〇円となる。なお、右記載のとおり、原告優夫は、合計四回にわたり、大阪市立大学附属病院に通院しているが、右の次第でタクシー料金は相当損害とは認められず、タクシー以外の交通手段による原告優夫の自宅から同病院までの交通費は明らかでないから、同病院への通院交通費は、認められない。

(算式) 340×2×(22+51)=49,640

4  付添交通費(主張額一三万五九七〇円) 五〇〇〇円

甲一七によると、事故直後、原告優夫の家族は、本件事故発生の連絡を受けて馬場記念病院に赴いたこと、原告優夫に付添看護が必要な間、職業付添婦がついていたことが認められ、甲六の一によると、事故当日、右家族が同病院に行くために使用したタクシー代は、五〇〇〇円であることが認められる。

以上によれば、右の交通費五〇〇〇円は、事故直後に、重傷を負つた原告優夫の入院先の病院に、その家族が急行するために要した必要かつ相当な出費といえ、本件事故と相当因果関係が認められる。しかし、その余の原告優夫の請求については、特に家族の付添あるいは見舞が必要かつ相当であつたという事情が認められないので、本件事故による損害とはいえない。

5  休業損害(主張額四三五万八二三三円) 三七〇万七二九八円

以上の事実のとおり、本件事故前、原告優夫は、有限会社兼六に勤務していたが、甲三〇の五ないし一四及び三一の一ないし四によると、原告優夫は、本件事故前の昭和六〇年五月から昭和六一年四月までの一年間に、有限会社兼六から、合計三〇二万〇四五五円の給料を支給されていることが認められるから、本件事故に遭わなければ、昭和六二年九月二日の症状固定日までに、右の金額を基礎とした収入を得ていたものと推認される(乙二の一及び二並びに三の一及び二によると、兼六では、賞与昇給について一定の規則性があり、優夫に支給される昭和六一年夏及び冬の賞与は右の規則性により算定できるということである。しかし、甲二五の一ないし一二、二六の一ないし一五、二七の一ないし一四、二八の一ないし一五および二九の一ないし一五によるも、右の規則性は確認できず、右乙号証は採用できない。)。したがつて、前記第三の一3(四)の検討結果に基づいて、昭和六一年五月一一日から昭和六二年九月二日までの本件事故と相当因果関係のある原告優夫の休業損害を算出すると、次のとおり三七〇万七二九八円となる。

(算式) 3,020,455×(1+51/365)+3,020,455×64/365×(1-0.5)=3,707,298

(一円未満切捨て、以下同じ)

6  後遺障害による逸失利益(主張額五九三四万四五〇〇円) 三三一八万一二〇八円

右5のとおり、原告優夫は、本件事故前一年当たり三〇二万〇四五五円程度の収入を得ていたものと認められるが、さらに、以上認定の事実によると、本件事故に遭わなければ、本件症状固定日である昭和六二年九月二日から六七歳までの四三年間に、少なくとも平均して一年当たり右金額程度の収入を得ていたものと推認されるが、本件事故により、前記第三の一2(二)のとおり、右期間を通じて、平均してその五〇パーセントを失うこととなつたものと考えるのが相当である。したがつて、以上を基礎として、ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して、右逸失利益の本件事故当時における現価を算出すると、右のとおり三三一八万一二〇八円となる。

(算式) 3,020,455×0.5×(22.932-0.952)=33,181,208

7  慰謝料

(一) 傷害慰謝料(主張額三〇〇万円) 二四〇万円

原告優夫の受傷内容、治療経過その他以上に記載の諸事情を総合すると、本件事故による原告優夫の傷害慰謝料は、二四〇万円と認めるのが相当である。

(二) 後遺障害慰謝料(主張額一三八三万円) 一〇〇〇万円

原告優夫の後遺障害の内容程度、特にケイレン発作の起きる可能性が生涯にわたつて存すること、その他以上に記載の諸事情を総合すると、本件事故による原告優夫の後遺障害慰謝料は、一〇〇〇万円と認めるのが相当である。

8  物的損害(主張額四九万二五〇〇円) 二一万円

乙五によると、本件事故当時の被害車の現価は、二一万円程度であつたが、本件事故による損傷の修理費用として二八万円以上必要であることが認められ、以上よりすれば、経済的に全損したものと考えられる。

また、原告優夫は、同号証及び甲二一に基づき、右被害車以外の事故当時の所持物及び着衣の損害をも主張するが、いずれも購入価格の請求であるのに、同人の供述からは、特定できないが使い古したものもあるものと認められ、また、全証拠に照らしても、いずれの物の事故当時の価格も明らかとはならないから、被害車以外の物損についての損害は認められない。

9  損害合計

以上の損害額を合計すると、四九九七万四九二六円となり、前記第一の二5のとおり、当事者間に争いのない既払額合計三一〇万〇六五八円を控除すると、四六八七万四二六八円となる。

10  弁護士費用(主張額二〇〇万円) 二〇〇万円

弁論の全趣旨により、原告優夫は、弁護士である原告訴訟代理人に本件訴訟の提起及び追行を委任し、相当額の報酬を支払うことを約したものと認められるところ、本件訴訟の審理経過、認容額その他の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係にある弁護士費用は、二〇〇万円が相当である。

11  内金請求について

優夫は、内金二六五万一二九〇円について、平成三年九月三日付準備書面でもつて、同書面送達の日の翌日からの遅延損害金の請求を行つているところ、その趣旨は、弁論の全趣旨からすると、治療関係費、入院雑費、通院交通費、付添交通費及び弁護士費用の認容額合計について、右の日からの遅延損害金を求めるものであり、また、被告代理人は、右準備書面の副本を平成三年九月二日に受領したことは記録上明らかであるから、右各項目の認容額合計二四七万六四二〇円については、平成三年九月三日からの遅延損害金を認めるべきである。

三  原告村中新治及び原告村中初子の慰謝料(主張額各一〇〇万円)

以上認定の原告優夫の受傷内容、治療及び症状の経過、後遺障害の程度その他の諸事情に鑑みて、原告新治及び原告初子が原告優夫の両親であるとの事実を考慮しても、原告優夫に対する慰謝料のほかに同人らに本件事故による慰謝料を認めるべき特別の事情は認められない。

四  よつて、原告優夫の本訴請求は、金四八八七万四二六八円及び内金四六三九万七八四八円に対する本件事故日である昭和六一年五月一〇日から、内金二四七万六四二〇円に対する請求拡張の準備書面送達の翌日である平成三年九月三日から、各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度において理由があるからこれを認容し、原告優夫のその余の請求並びに原告村中新治及び原告村中初子の各本訴請求はいずれも失当であるから、これを棄却し、主文のとおり判決する。

(裁判官 林泰民 本多俊雄 小梅隆則)

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